JRCA正式発足までの経緯

 99年7月に、JMRC(モータースポーツクラブ地域協議会)の各地区代表を集めた会合が東京で開かれた。会合には、全日本ラリー選手権の現場の声を反映する試みとして、ラリーチームを運営する加勢裕二と中野正裕、前年度チャンピオンクルーの西尾雄次郎と山口顕子、そしてその年のチャンピオン獲得が濃厚だった奴田原文雄が、オブザーバーという立場で参加した。この会合終了直後、5人は「自分たちが今立ちあがらなければ」という気持ちで一致し、出場者と主催者が協力するための組織を作るべく具体的行動を起こすことを決意した。
 
まず、9月開催のシリーズ第8戦前夜に出場選手を集めてJRCAの構想を発表。この集会で、エントラントやチーム運営者の多くが同様の気持ちを抱いていることがわかり、活動の必要性を確信した。後に石田正史もメンバーに加え、スポンサーをも巻き込むことを決定。「JRCA設立準備会世話人」として、秋からは主要協賛企業であるタイヤメーカーや自動車メーカー直系スポーツパーツメーカーに対して活動の趣旨説明を開始。12月には、2000年の全日本戦主催が決定しているオーガナイザー、99年度の最終2戦に出場したエントラント、ほぼ恒常的にエントリーしているチームに対して、設立趣旨を含めた説明書を発送し、活動への賛同を募った。
 
賛同者がある程度集まったのを機に、2000年4月には発起人主要メンバーがJAFモータースポーツ局長田村勝敏氏と会談、この活動の趣旨を説明し、理解と協力を求めた。局長は、「これまでレースにはこのような団体があったが、ラリーにはなかった。このような活動は大いに歓迎する。」と語った。
 
6月下旬から7月までの間に正式発足させることを目標に、会長、役員の人選を進めた。会長には、全日本ラリーとWRCの両方を経験し、対外的な知名度もある人物を、と考えた。ただし、加勢は多くのモータースポーツカテゴリーに参戦しているキャロッセの総監督兼社長として多忙を極め、会長としての責務を果たせないとして就任を固辞。現役のトップドライバーである西尾、奴田原、石田は、中立的立場を維持しにくい。中野は裏方(チーム監督)一筋なので対外的知名度を考えると最適とはいえない。そこで元全日本ラリーチャンピオンとして知名度も高く、この活動に賛同の意を表明していた桜井幸彦に会長就任を打診したところ、快諾を得た。
 
会の活動方針を決める評議員には、主催団体と協賛企業からも参加を募った。結果、発足時には、主催団体としてCMSC青森とルート10延岡が、協賛企業からは、ラリーアート、STI、横浜ゴムが就任した。さらに、エントラントからの評議員として、全日本とWRCの両方に精通している田口雅生、市野諮にも就任を依頼し了承された。
 このように発足時の評議員・会長の選定は発起人によって行われたが、発足以後は、会則に定められたように、会員からの立候補や推薦をとおして評議員・会長が選ばれることになる。評議員に対しては、会員が信任または不信任を表明することもでき、評議員の人選に関して会員の意志が直接反映できる仕組みになっている。また、会長の信任・不信任は評議委員会によって決定される。

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